架け橋 @ベオグラード
↑ドナウ川に続くサヴァ川
↑聖サヴァ教会
↑国会議事堂
↑セリビア正教大聖堂
↑城塞
セルビアに来て…
いつもと同じように、訪れる国、街のことを検索する。(いつもは訪れる前に検索するが、サラエボでWi-Fiのつながりがあまりよくなかった…)その中で、過去の記憶が呼び戻された。
確か、ユーゴスラビア出身のJリーガーがいたよな…と。早速検索すると「ストイコビッチ」がヒットした。
そう!名古屋グランパスの人!
1993年Jリーグが開幕し、当時、Jリーグがものすごく盛り上がっていた。私もガンバ大阪のファンで、よく万博に試合を見に行った。
個人的には、ラモス、リトバルスキー、シジマールを応援していた。その中に、ストイコビッチがいた。
しかし、当時の私は、ストイコビッチが背負っているものを何も知らずに観戦していた。
1993年。そう、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争真っ只中。各国で独立が相次いでいた時。
1994年、 ストイコビッチ来日。
検索する中でわかったこと、また、本を読む中でわかったこと↓↓↓
《ストイコビッチは 1965年、旧ユーゴスラビア、現在はセルビア共和国の第2の都市・ニシュで生まれた。
16歳で地元のクラブでプロデビュー。1994年の夏、日本にやってきた。
1999年、コソボ紛争にNATOが介入。NATOがコソボ側につき、ユーゴスラビア国内への空爆を決定。
この時、ストイコビッチ率いるユーゴ代表はキャンプをしていた。しかし、空爆を避けるため、国外脱出を図る。ストイコビッチもオーストリアとの国境を超え、ウィーンの空港から日本へ戻ったという。ストイコビッチは、空爆から3日後、神戸でのJリーグの試合に臨んだ。
その試合で福田健二のゴールをアシストした後、ストイコビッチはユニフォームをたくし上げ、下に着たTシャツに自らが書いたメッセージを披露した。
『 NATO STOP STRIKES
それから2ヶ月半が経った後、ようやく NATOによるユーゴスラビア空爆作戦は、停止。》
このニュースは、日本でも報道されていたことを記憶している。
今、思うこと。
ユーゴスラビアをめぐる紛争は、簡単には理解できない。誰かが正しくて、どっちかが間違っていたなんて、簡単には言えない。もちろん、人の命を奪うことは絶対に許されないことだけど。
私たちに入ってきた情報は、コソボ側にNATOがついたから、ユーゴスラビア(セルビア)側を「悪」とする報道。本当にそれが全てだったのか。
昭和史の本を読む中で、日本が戦争に向かってしまったのも、新聞によって国民の感情が煽られている部分があった。
メディアが情報を操作している中で、私たちはその情報に翻弄されている。
アウシュビッツで学んだこと、昭和史の本を読んで感じたこと、これまでの各国、セルビアまで来た中で知ったことを通して、情報に流されず、『自分はどう感じ、どう考え、どう行動するか』なんだと思った。
ストイコビッチはある挨拶文の中でこう言っている。
「民族融和には何が必要なのでしょうか。単に「民族融和は大事だ」と何百回繰り返したところで、それはただの言葉に過ぎないでしょう。私は真に必要なものはこの「架け橋」であると思います。人々の交流なしに融和は生まれません。交流を生むためにはきっかけが必要であり、そのきっかけとしてフットボールは大きな役割を果たしています。」と。
「交流するということが大事」
じゃ、今の私にできることは…
やっぱりその国、その街を訪れること。そして、そこで実際に見て感じること。
国境を越えるとき、チケットを買うとき、ホテルにチェックインするとき、ホントに小さな小さな交流だけど、これが今の私にできること。
そして、このブログを通して、その国、その街のことを少しでも見てくださっている方々に伝えられるといいな。
今日は久々に20km歩いた。その中で行ったところを1つだけ紹介。
テニスプレイヤーのジョコビッチ選手の一家が経営するレストラン!
ジョコビッチが11歳のとき、コソボ紛争にNATOが介入し、セルビアへの空爆が始まった。爆音を聞きながら、暗い防空壕で78日間過ごしたという。
そんな背景がありながら、ジョコビッチはプレーをしている。
↑空爆によって飛んだ破片が当たった場所