1992-1995 @サラエボ
ユーゴスラビは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれるほど、世界で一番複雑な集合体を形成していた。
各国が独立する中で、ボスニア・ヘルツェゴビナという国には、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」というボシュニャク人とクロアチア人の連邦政体と、セルビア人の「スルプスカ共和国」が存在し、その2つの「国」が国土を二分している。
サラエボの街は、この「国境線」上に位置し、両民族の住み分けがなされている場所。
昨日は、サラエボの街をもう一度勉強し直して、街へ出かける。
1つ目は、「サラエボのバラ」とよばられている砲弾の跡。そこへ赤い樹脂を流し込んでいる場所。
3箇所あり、1日目に歩いたところにもあった。1日目は、気づかなかった。というより、それを見ようとしていなかった。けど、昨日は見ようと意識を向けたから見えてきた。見ようとするから見えるものがある。
また、知らない時は、平気でその上を歩いていたかもしれない…でも、知るとその上を歩こうとは思えない。
「知る、学ぶことは大切」
知らないことで、傷つけてしまうことがたくさんある。
街を歩いていると、この展示場を見つけ、入ってみた。
紛争時の写真を中心に、映像も流れていた。
たくさんある中で特に印象に残っているもの。
1つは、少年が空に向かって弓矢を引いている写真。
彼が弓で射ろうとしているとのは何だろうか?空!?飛行機!?敵!?戦争!?
私には、私たち、おとなに向けられたものだと感じた。
もう1つは、映像の中で、お母さんに言われて水を汲みにいく少年。この映像は1994年。私は中学3年。当時、同じ年頃の子の生活。
水を汲んでいる最中に爆撃が始まり、身を隠しながら家に走って帰る。兵士に守られたり、背を低くして車の陰に隠れたりしながら。やっとの思いで家にたどり着くと、お母さんが砲弾によって亡くなっている…一般市民が住む住宅までが対象となり、たくさんの方が亡くなっている。
中学3年当時のことはあまり覚えていないが、この映像の1994年7月は、ソフトボール部に所属し、最後の引退試合に向けて練習をしていた…同じ頃、ここサラエボでは映像の世界が現実にあったことが、信じられない。
その前にある教会の壁↓
教会の前にもサラエボのバラとよばれる砲弾の跡
そして、今日はトンネル博物館へ。
セルビア軍によって包囲されたサラエボの街とつながるトンネル。その一部が公開されている。
トンネルだけでなく、砲弾も残る…
自分の中の現実とかけ離れすぎていて、整理しきれない…