入国・出国 @コソボ

今日は、バスでセルビアベオグラードから、コソボプリシュティナまで移動。

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これが大変だった…

 

まずは、ここ最近の国境を越えについて。

 

チェコまでは、シェンゲン協定に加盟している国々だったため、国境を越えるといっても、標識が立っているだけで一瞬で通過する国境越えだった。

 

クロアチアに入国するとき、久しぶりにパスポートを提示して、スタンプを押してもらう。それでも、とても簡単な入国。荷物検査がある訳でもなく、バスから降りてカウンターでスタンプをもらうだけ。そして、バスに乗り込む。

 

クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナへの入国はというと…
バスの中でパスポートを回収され、返却。

 

なんと!なんと!

 

返却されたパスポート、どこのページを見てもスタンプが押されていない…とりあえず、入国した時のバス→ホテル→出国する時のバスまで、全ての領収書を置いておく。

 

いざ、出国へ。

 

パスポートを回収されただけで、やはりスタンプなし。まぁ、無事出国できたからいいか。ドキドキする出国でした。

 

次はセルビアに入国。
所変わればやり方も変わる!バスにパスポートをチェックする人が乗ってきて、顔を確認して、その場で入国スタンプを押してくれる。私はバスの席に座ったまま。

 

そして、今日、セルビアからコソボへ。

 

 

その前に少しだけ。
セルビア人にとって、コソボは民族にとって重要な土地とみなされている。
2008年、コソボセルビアから独立することを宣言しているが、セルビア側は認めていない。
日本を含めた111カ国は、コソボを国家として認めいる。しかし、国連加盟国の半数近くに上る85カ国は承認を拒否している。

 

 

そんな事情もあり、セルビアを出国する時は、パスポートは一旦回収されたもののスタンプは押されずに返却。セルビア側からいうと出国にはあたらない。

 

そのままコソボ入国へ。ここでも、バスの中でパスポートを回収され、今度はスタンプを押されて返却。コソボ側からいうと入国にあたる。

 

ということで、今日の国境越えは少し緊張しました。

 

外務省のホームページ海外情報によると一部の地域を除いて、危険情報は出ていない。

けれども、ネットで情報を集めると、コソボに向かうバスに向かって、投石があった…などという情報が…

 

乗ったバスはこんな感じ。

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フロントガラスが割れている。これはもしや投石があった!?と思わせるバス。

 

しかし、そんなことはなく、順調にバスは走りました。若干、道路が凸凹していて揺れたけれど、酔うこともなく。

 

しかし…


空調がきいていない!!!
外の気温37度。その中、窓も開かないバスの中。途中、休憩を2回はさんで6時間の移動。

かなり厳しい移動になりました。

 

でも、無事コソボの首都プリシュティナに到着。

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水分が全て出た感じなので、今日は近くのスーパーでビールを買って乾杯。

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 Prishtina beer???

あぁー疲れた!

 

明日は街をめぐります。

架け橋 @ベオグラード

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ドナウ川に続くサヴァ川

 

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↑聖サヴァ教会

 

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↑国会議事堂

 

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↑セリビア正教大聖堂

 

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↑城塞

 

セルビアに来て…

 

いつもと同じように、訪れる国、街のことを検索する。(いつもは訪れる前に検索するが、サラエボWi-Fiのつながりがあまりよくなかった…)その中で、過去の記憶が呼び戻された。

 

確か、ユーゴスラビア出身のJリーガーがいたよな…と。早速検索すると「ストイコビッチ」がヒットした。

 

そう!名古屋グランパスの人!

 

1993年Jリーグが開幕し、当時、Jリーグがものすごく盛り上がっていた。私もガンバ大阪のファンで、よく万博に試合を見に行った。

 

個人的には、ラモス、リトバルスキーシジマールを応援していた。その中に、ストイコビッチがいた。

 

しかし、当時の私は、ストイコビッチが背負っているものを何も知らずに観戦していた。

 

1993年。そう、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争真っ只中。各国で独立が相次いでいた時。

 

1994年、 ストイコビッチ来日。

 

検索する中でわかったこと、また、本を読む中でわかったこと↓↓↓

 

ストイコビッチは 1965年、旧ユーゴスラビア、現在はセルビア共和国の第2の都市・ニシュで生まれた。
16歳で地元のクラブでプロデビュー。1994年の夏、日本にやってきた。

 

1999年、コソボ紛争NATOが介入。NATOコソボ側につき、ユーゴスラビア国内への空爆を決定。

 

この時、ストイコビッチ率いるユーゴ代表はキャンプをしていた。しかし、空爆を避けるため、国外脱出を図る。ストイコビッチオーストリアとの国境を超え、ウィーンの空港から日本へ戻ったという。ストイコビッチは、空爆から3日後、神戸でのJリーグの試合に臨んだ。


 

その試合で福田健二のゴールをアシストした後、ストイコビッチはユニフォームをたくし上げ、下に着たTシャツに自らが書いたメッセージを披露した。


NATO STOP STRIKES

NATO空爆を止めよ) 』


それから2ヶ月半が経った後、ようやく NATOによるユーゴスラビア空爆作戦は、停止。》

 

 

このニュースは、日本でも報道されていたことを記憶している。

 

 

今、思うこと。
ユーゴスラビアをめぐる紛争は、簡単には理解できない。誰かが正しくて、どっちかが間違っていたなんて、簡単には言えない。もちろん、人の命を奪うことは絶対に許されないことだけど。

 

私たちに入ってきた情報は、コソボ側にNATOがついたから、ユーゴスラビアセルビア)側を「悪」とする報道。本当にそれが全てだったのか。

 

 

昭和史の本を読む中で、日本が戦争に向かってしまったのも、新聞によって国民の感情が煽られている部分があった。

 

メディアが情報を操作している中で、私たちはその情報に翻弄されている。

 

アウシュビッツで学んだこと、昭和史の本を読んで感じたこと、これまでの各国、セルビアまで来た中で知ったことを通して、情報に流されず、『自分はどう感じ、どう考え、どう行動するか』なんだと思った。

 

ストイコビッチはある挨拶文の中でこう言っている。

「民族融和には何が必要なのでしょうか。単に「民族融和は大事だ」と何百回繰り返したところで、それはただの言葉に過ぎないでしょう。私は真に必要なものはこの「架け橋」であると思います。人々の交流なしに融和は生まれません。交流を生むためにはきっかけが必要であり、そのきっかけとしてフットボールは大きな役割を果たしています。」と。

 

「交流するということが大事」

 

じゃ、今の私にできることは…

やっぱりその国、その街を訪れること。そして、そこで実際に見て感じること。

国境を越えるとき、チケットを買うとき、ホテルにチェックインするとき、ホントに小さな小さな交流だけど、これが今の私にできること。

 

そして、このブログを通して、その国、その街のことを少しでも見てくださっている方々に伝えられるといいな。


今日は久々に20km歩いた。その中で行ったところを1つだけ紹介。

 

テニスプレイヤーのジョコビッチ選手の一家が経営するレストラン!

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ジョコビッチが11歳のとき、コソボ紛争NATOが介入し、セルビアへの空爆が始まった。爆音を聞きながら、暗い防空壕で78日間過ごしたという。

そんな背景がありながら、ジョコビッチはプレーをしている。

 

 

 

NATOからの空爆を受け建物は今も残る…

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空爆によって飛んだ破片が当たった場所

 

 

1992-1995 @サラエボ

ユーゴスラビは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれるほど、世界で一番複雑な集合体を形成していた。

各国が独立する中で、ボスニア・ヘルツェゴビナという国には、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」というボシュニャク人とクロアチア人の連邦政体と、セルビア人の「スルプスカ共和国」が存在し、その2つの「国」が国土を二分している。

サラエボの街は、この「国境線」上に位置し、両民族の住み分けがなされている場所。

 

昨日は、サラエボの街をもう一度勉強し直して、街へ出かける。

 

1つ目は、「サラエボのバラ」とよばられている砲弾の跡。そこへ赤い樹脂を流し込んでいる場所。

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3箇所あり、1日目に歩いたところにもあった。1日目は、気づかなかった。というより、それを見ようとしていなかった。けど、昨日は見ようと意識を向けたから見えてきた。見ようとするから見えるものがある。

また、知らない時は、平気でその上を歩いていたかもしれない…でも、知るとその上を歩こうとは思えない。

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「知る、学ぶことは大切」

知らないことで、傷つけてしまうことがたくさんある。

 

街を歩いていると、この展示場を見つけ、入ってみた。

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紛争時の写真を中心に、映像も流れていた。

 

たくさんある中で特に印象に残っているもの。

 

1つは、少年が空に向かって弓矢を引いている写真。
彼が弓で射ろうとしているとのは何だろうか?空!?飛行機!?敵!?戦争!?
私には、私たち、おとなに向けられたものだと感じた。

 

もう1つは、映像の中で、お母さんに言われて水を汲みにいく少年。この映像は1994年。私は中学3年。当時、同じ年頃の子の生活。
水を汲んでいる最中に爆撃が始まり、身を隠しながら家に走って帰る。兵士に守られたり、背を低くして車の陰に隠れたりしながら。やっとの思いで家にたどり着くと、お母さんが砲弾によって亡くなっている…一般市民が住む住宅までが対象となり、たくさんの方が亡くなっている。

中学3年当時のことはあまり覚えていないが、この映像の1994年7月は、ソフトボール部に所属し、最後の引退試合に向けて練習をしていた…同じ頃、ここサラエボでは映像の世界が現実にあったことが、信じられない。

 

その前にある教会の壁↓

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教会の前にもサラエボのバラとよばれる砲弾の跡

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そして、今日はトンネル博物館へ。

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セルビア軍によって包囲されたサラエボの街とつながるトンネル。その一部が公開されている。

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トンネルだけでなく、砲弾も残る…

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自分の中の現実とかけ離れすぎていて、整理しきれない…

 

 

サラエボ事件&オリンピック @サラエボ

2017/07/26

 

昨日、ボスニア・ヘルツェゴビナモスタルという街から、珍しく電車に乗ってサラエボに移動。

 

朝6:27、モスタル発の電車。これ↓がホーム。このホームには1日4回しか電車が止まらないらしい…

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途中、窓から見える景色はとても美しい。

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30分ほど遅れてサラエボ到着。都会!!

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今日、泊まっていたホテル・ホリデーは旧ホリデーイン。

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紛争当時、このホテルに報道陣が泊まって、各国に情勢を伝えていたらしい。もちろん、このホテルも破壊されている。その状態で営業もされていたという。

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このホテルは四つ星ホテル。私たちの旅では高級ホテル。でも、ここで一泊することを決めた。少しでも当時のことを知りたいと思ったから。

このホテルの前は、スナイパーストリートと言われ、動くもの全てが狙撃兵の標的になったという場所。

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夜、ホテルの上から↓

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モスタルよりも銃弾の跡は少ないように思うが、まだまだ傷跡は残る。

 

昨日はまずラテン橋へ。

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ここは第一次世界大戦のきっかけになったサラエボ事件の場所。
厳密には、橋の上ではなく、この建物の前あたりが事件の場所のよう。

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1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・王国の継承者
と妻が、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニアセルビア人の青年によって暗殺された事件。この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

 

この事件も、立ち位置によって様々な見方がある。テロリスト呼ばれる一方で、英雄的存在という人も…どこから見るからかで解釈、理解も違う。

 

という意味で、民族間の対立なども理解することがとても難しい。

 

そして、もう1つ。
ここは、1984年にサラエボオリンピックが開催された場所。

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そのわずか10年もたたないうちに紛争が始まる…
オリンピックで使われた場所の一部は、この紛争で亡くなられた方の墓地として使われている。それだけの人が亡くなっている。

 

私は当時、中学生。同じ時代に生きている…同じ時に、この紛争があったことが信じられない…

ここに住む人たちはどんな思いで生活されているのだろうか。

モスタルの摂津峡 @ボスニア

昨日は、一日中、作戦会議。

その合間に食べたブレックBurek。パイ生地にミンチ肉が入ったパン。サワークリームのようなものをつけて食べるとさらに美味しい!

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昨日、嬉しいお知らせがありました。

この夏の貴重な貴重な休みを使って、旅に合流してくれると!!

 

それに向けて、検索タイム!!

時間はたくさんあるので、モスタルの宿泊を一日延ばし、とにかく調べる!

 

8月、楽しみにしてまーす(^o^)

 

そして、今日は昼から、高槻でいう摂津峡のようなところ、ブラガイを目指しました!

出発が遅かったので、ちゃんと今日中に帰って来られるか心配しながら出発。

 

乗ったのはこの↓バス。

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よーーーく見ると「JAPAN」の文字が。

紛争終結直後から、日本はボスニア・ヘルツェゴビナの国造りを支援してきたそうです。その1つがバス。

 

最近では「サッカー」を通じた民族融和に向けた取組を行っているらしい。

ここモスタルは、1990年代の紛争で民族間の戦闘が最も激しかった地域のひとつ。紛争終結から20年以上経過した今でも、学校の授業が民族別に行われる等、民族間の対立が根強く残っている。

 

そのモスタルで、元サッカー日本代表主将の宮本恒靖さんの主導で、異なる民族の子どもたちが共に学ぶスポーツ・アカデミー「マリ・モスト(現地語で「小さな橋」の意)」の活動が展開されている。今では,異なる民族の子どもたちが一緒に試合をしたり,グループで遠征に出かけたりするといった活動が行われている。また,JICAも専門家を派遣し,技術協力プロジェクトを開始している。学校教育における体育の共通カリキュラムの策定や,モスタル市スポーツ協会の能力強化を通じて,異なる民族の子どもたちが共に学べる環境づくりを支援している。(外務省HP参照)

 

かつては、多民族、宗教の違いを受け入れて共存・共生していたところ。

いつの日か民族間の対立がなく、共存・共生できる日がおとずれますうに。

 

モスタルは紛争の傷跡もまだまだたくさんありますが、今日は、ブラガイへ。

今日の目的地はここ↓

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イスラム教の寺院だそうです。

その近くのレストランで、マス料理をいただきました。

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ランチの後は、対岸へ。

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ここ↓が先ほどランチした場所。

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見てください!この景色!

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摂津峡っぽいでしょ!?^_^;

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次はこの写真↓の左にある穴の中へ。

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美しい!!!

この川は、この洞窟の中から、湧き出てるんですよ!

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そんな景色を見ながら、ボスニアコーヒーをいただき、無事、ホテルに帰ってきました。

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明日はサラエボへ。

 

 

至る所に紛争の傷跡 @モスタル

気温が上がりきる前にスタリ・モスト橋へ。

そこに着くまでに、銃弾の跡が残った建物がたくさん…

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ここ↓の墓地には1993年に亡くなららた方がたくさんおられる。若い人も。

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左の建物にも、右の建物にも紛争があったことを物語っている…

 

世界遺産スタリ・モスト橋!

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 橋の手前(西側)と、橋を渡った先(東側)では、雰囲気、お土産の感じも違う。

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東側にも銃弾の跡が。

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とにかく暑いので、一旦ホテルへ戻りました。

 

夕方、もう一度出かけて、晩ごはん。

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ビックサイズで420円。

 

20:20、日の入り。陽が沈むと涼しくなってきました。

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1993年当時、爆撃されたスタリ・モスト橋↓

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以前、この地でお仕事をされていたという方の情報で、夜歩いても安全ということだったので、22時過ぎまで涼みました。

夕焼けと夜景も美しい!

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共存・共生 @モスタル

今日はクロアチアトロギールからスプリット→ボスニア・ヘルツェゴビナモスタルへ移動。

 

アドリア海を見ながら、バスで移動。
絶景!!!!!


しかし…

久しぶりに乗り物酔いしそうだったので、写真は1枚も撮れず…

 

16時頃、モスタルに着いたので、ホテルの近くを歩いた。

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この時の気温、37度!

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日差しがきつい!!!暑い!でも、日陰は歩ける。

一旦、ホテルへ戻り、20時ごろもう一度、街へ。

 

バスの中からも見えたが、銃弾の跡が残る建物がある。

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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷跡が残る。

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当時、テレビでニュースを見た記憶がある。


その当時の影響が今も残る。

 

現在、スターリ・モスト橋を境に、西側にカトリック教徒のクロアチア人↓↓↓

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東側にイスラム教徒のボシュニャク人が住んでいる↓↓↓

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それぞれの民族が生活する場所は、住み分けられているらしい。

ともに生きるために。

 

共存・共生とは何かを考えさせられる。

 

働いてた頃、「違っていて当たり前」と言ったり、聞いたりしていたが、本当に違っていて当たり前とどれだけの人が思っているのか疑問が多くあった。

 

日本の社会は、同調や同じことを求め、求められている気がする。

 

ヨーロッパを巡る中で感じたこと。

 

例えば言語。スイスでは、スイスドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語公用語だという。私たちが出会った人たちは、さらに英語を話し、タイ語を話しと、多様な言語があった。それだけでなく、文化も人も違っていて当たり前。髪の毛の色、目の色、肌の色、生まれた場所、本当に違っているのが当たり前ということを実感する。

 

その中で共存・共生している。

 

日本はどうか。違うことを見つけ、指摘する…同じようにすることを求め、求められ…

そこに合わせよう合わせようとしてしまう自分がいる。

違いを認めるって難しい。

 

ここボスニア・ヘルツェゴビナモスタルでは、違いを認め合い、共存できる道を歩もうとしているところなのか。

 

民族間の対立、宗教の違い…まだまだ難しいところがある。また、それを理解するのはとても難しい。

 

明日は、旧市街地の方へ出かけ、街を歩きたいと思う。
まだまだ復興が進んでおらず、銃弾の跡がたくさんあるという。そこを実際に訪れ、感じてきたい。

 

 

陽が沈む8時半ごろ、涼しくなってきたからか、街にたくさんの人が見られた。カフェでコーヒーを飲む人の姿もたくさん。

 

で、私たちもカフェへ。1杯90円のコーヒー。

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涼しくて、とても気持ちがいい。

珍しくコーヒーを頼む。エスプレッソ!?量が少なくて、ものすごく苦いやつ。そこに砂糖を入れて、少しずつ飲む。意外と美味しかった!これからはコーヒーもいけるかな!?