ヴィエリチカ岩塩坑 @クラクフ
ここポーランドには、第一号の世界遺産が2つもある。それが、このクラクフの街。
1つ目は、クラクフ歴史地区。
クラクフは、ポーランドでは珍しく第二次世界大戦の戦災を免れ、中世そのままの街並みが残されている。
2つ目が、ヴィエリチカ岩塩坑。
1290年頃から1996年まで稼働していた岩塩採掘場。今日は電車に乗って、岩塩坑へ。
長蛇の列を心配していたけど、無事12時のグループで入れました。
まずは、ひたすら階段を降りる。
そこからは、英語のガイドさんの元、迷路のような道をどんどん進みます!
とにかく壁や天井、床、彫刻すべてが岩塩。これも↓↓↓
どんどん進みます。
途中、水!?が流れていました。
もちろん、舐めるとしょっぱかったです!
これも岩塩。
これ↓写真では広さがなかなか伝わらないけど、すごく広い!
下にいる子どもたちが見えるかな!?
壁にはたくさんの彫刻。
地下水がたまっているところも。
ちょっとわかりにくいけど、天井の高さ、わかるかな!?
最後、出口の近くには第一号の世界遺産の国が彫られていました。
UNESCO(国際連合教育科学文化機関)によって制定される世界遺産。
1978年に登録された世界遺産第一号は12ヶ所あるようです。
①エクアドル ガラパゴス諸島
②アメリカ イエローストーン
③ポーランド クラクフ歴史地区
④ドイツ アーヘン大聖堂
⑤エクアドル キト市街
⑥エチオピア ラリベラの岩窟教会群
⑦エチオピア シミエン国立公園
⑧ポーランド ヴィエリチカ岩塩坑
⑨カナダ ナハニ国立公園
⑩セネガル ゴレ島
11アメリカ メサ・ヴェルデ
12カナダ ランス・オ・メドー国定史跡
このうちの2つに今日は行ってきました。明日はアウシュビッツ博物館へ行く予定。
復興の街 @ワルシャワ
ワルシャワ2日目!
2日目は、前の夜に計画を立てたので、計画通りまち歩き。
まずは、バス停へ。
24時間乗り放題のチケットを買う予定だったのですが、ちょうど乗りたいバスが来たので、バスに乗り込む!
しかし…中でチケットを買おうと思ったら、なんとなんと一回チケットしか買えず…
とりあえず、中心地へ向かい、そこからひたすら歩く。
旧市街地へ向かう。ここも世界遺産!
ここポーランドは、過去に何度も地図から姿を消し、そのたびによみがえってきた国。
第二次世界大戦では戦場となり、クラクフなどわずかな例外を除いて主な都市はほとんど破壊された。
戦争末期の1944年ナチスドイツ軍に対するワルシャワ蜂起が失敗したことで、報復のために街は徹底的に攻撃され、街の85%が破壊された。
しかし、戦後、ポーランドの人々の粘り強い努力により可能な限り復元され、中世さながらの街並みが再び見られる。
「ひびの一本にいたるまで」といわれるほど忠実に街が復元された。
(地球の歩き方より)
今日は、ワルシャワ蜂起博物館に行き、ポーランドの人たちが立ち上がった時の様子を見てきました。
あと、ここは、キュリー夫人の生家
今はキュリー夫人博物館になっています。
キュリー夫人に引き続き、ショパンでも有名な街。ベートーヴェンが好きだった子のことを思い出しながら…
ショパンが教会の日曜ミサでオルガニストをしていたヴィジトキ教会。
教会の前には、座るとショパンの曲が流れるベンチがあります!
次は、ショパンの心臓が埋められているという聖十字架教会
ちょうどミサが行われていました。
昼ごはんはこれ。
酢飯のいい匂いに誘われ店内へ。醤油もつけましたが、緑→アップルわさび、オレンジ→スパイシーマヨネーズというソース!?をつけていただきました。ワサビが苦手な人もいけるかも!?
この日の最後は公園散歩。
春巻きセットを買って、大きな大きな公園へ。
昨日、お家でご馳走してくれた方のオススメだったので、行ってみました。日が暮れるとやはり暗いですが、その中でライトアップされるワジェンキ王宮は美しかった。
そして、今日はクラクフの移動まで、ワルシャワ蜂起博物館へ。
24時間乗り放題チケットをフル活用して、バス、トラム、メトロに乗りました。
ただいまの時間6月5日01:00前
今日は、『大切で大好きな人』の誕生日^ ^
!!!お誕生日おめでとう!!!
大都会ワルシャワ @ポーランド
大都会ワルシャワ!!
朝も早かったので、もちろん歩いてホテルへ向かいました。でも、今日はなんと約6km先にホテルがあります。
歩きました!ひたすら歩きました!
重い荷物を背負って…
バルト三国の首都と違い、とにかく広い!道路の幅、横断歩道…
でも、ずっと歩く道に公園があったり、芝生が続いたりと、環境はいい感じ。
本当は事前に調べて、タクシーに乗ったり、バスに乗ったりするんですよね…
今回はホテルについてから、公共交通機関について調べました。
荷物を預かってもらって、早速駅前へ。6km来た道をバスで戻ります。20分ぐらい乗ってたかな。
バスを降りるとこの景色!
駅前で両替して、ランチにこれ食べて↓↓↓
少しだけ旧市街地を散策して、今日はホテルへ帰りました。
ワルシャワはショパン、コペルニクス、キュリー夫人が住んでいた!?街らしいので、明日散策する予定。
夜は、地元の方のお家にお邪魔して、スープとピロギ、デザートをいただきました。
観光だけでなく、地元の方と交流したり、文化を知ったりできるのも、ともに旅する友だちのおかげです。
帰りの夕焼け
ただいまの時間21:20
緯度がさがったためか、日没が早くなりました。
今日の歩行距離約16.5km!
ここ4日間、毎日15km前後歩いてる…そりゃ足も疲れますね。
杉原千畝を追って @カウナス
2017/06/01
杉原千畝さんが、ビザを発給し続けた場所、ここカウナス。
第二次世界大戦中、リトアニアの首都がおかれたカウナスには日本領事館があった。1940年、ナチスの迫害から逃れるため多くのユダヤ人が、日本を通過するビザを求めて、カウナス領事館に押し寄せた。そこで杉原千畝さんは、2,000枚以上のビザを発給した。
一昨日、リトアニアの首都ヴィリニュスから、電車でカウナスに入った。
バルト三国、唯一の電車移動。
カウナス駅到着後、1.3km先のホテルをめざす。
泊まったのはこのホテル↓↓↓
ホテルメトロポリス
リトアニアから退去命令が出て、リトアニアを出なければいけなくなった。領事館閉鎖後に杉原千畝さんが滞在し、カウナスを発つ直前までビザを発給し続けたのがこのホテル。
私たちの旅行にはちょっと高価かな!?と思いながら検索してもらうと、そこまでではなかったので、少し奮発して宿泊しました。
ここの部屋かな?
この廊下も通ったんかな?
こうやって書いてたんかな?と当時に思いを馳せながら、過ごしました。
チェックアウトの時間12時ギリギリまでホテルで過ごし、昼からは杉原千畝記念館へ行きました。
途中に聖ミカエル教会を通り、住宅街の中へ。
この辺りかな〜と歩いていると、
到着。
耐震工事!?まさか入れない!?と一瞬焦りましたが、大丈夫でした。入館できました。
この机でビザを書いていたのかな〜。
ビザを発給した人たちのリスト。
2,139人
子どもたちは、その親が連れていけばいいということで、ビザが発給されていない。ビザの数は2,000枚ほどだが、杉原千畝さんが救った命は6,000人にのぼると言われている。
これはカウナスと日本でやり取りされた電報。
ビザ発給の要望に対して、時間がかかっている。
そして、当時、ユダヤ人を救うことに奔走していたのは、杉原千畝さんだけではない。
オランダの領事館の方や、日本までの船に乗せた人、たくさんの人たちが動いた事実を知った。
記念館の後はゆっくりランチ。
このお店で、戦時中を生きたおじいちゃんに手紙を書いた。いつ届くかな!?
旧市街地の散歩。
旧市街地、ちょっと見飽きてきたかなf^_^;
最後になぜ、ヴィリニュスからカウナスまで電車で移動したかというと、
第二次世界大戦中、杉原千畝さんたちに退去命令が出て、リトアニアを出なければなりませんでした。その際、列車でこのカウナス駅から出発したそうです。
今回、杉原千畝さん縁の地を訪れて、
もし自分が杉原千畝さんと同じ立場だったらどうしていたかな…と。杉原千畝さんのように自分の意思を貫くことができただろうか。
外務省の指示のままに…でも、たくさんの人の命が…と、自分がこうしたい!正しい!と思うことと、世間体やこれからのことで揺れたと思う。きっと杉原千畝さんもそうだったと思う。
杉原千畝さんから学んだこと。
自分が、正しい!こうしたい!やりたい!と思うことをする。そして、今の自分に1番欠けていること、そういった思いを表現すること。思うだけでなく、発信する必要性を感じる。そして、それが自分らしく生きることにつながる。
バルト三国 600km
エストニア,タリン
ラトビア,リガ
リトアニア,ヴィリニュス
この3つの都市、約600kmをバスで移動してきた。タリンからスタートした時は意識していなかったけど、ヴィリニュスまで来て、3つの都市をバスで移動してきたことは、自分にとって意味あるものだった。
バルト三国、この三カ国を訪れるまでは、国の場所、位置関係、歴史などなど何も知らなかった。
短い期間ではあったけど、その国を訪れる前に、または最中に、その国について調べ、知る機会が増えた。
三国ともロシア帝国に支配されていたが、ロシア革命ののち、1918年に三国とも独立をしている。しかし、第二次世界大戦中にソ連とドイツの占領が続いた。
私たちが「戦後」と言っている時代、
ここリトアニアは、ソ連に編入され、人々はKGB(ソ連国家保安委員会)に監視される中で生活してきたことを知る。
そして、今日はKGB博物館へ。
この博物館は、KGBの本部だったところ。ここにリトアニアの人々が連れてこられ、拷問を受けたり、シベリアに送られたりしたことを知る。
そして、1991年独立。
#wikipediaより
『リトアニア』という国ができて26年。まだ26年。
私が生まれた頃、小学生の頃、この国ではまだまだ「平和」とはほど遠い生活があったのかと思うと、心が痛む。
1989年8月23日、独立運動の一環としてデモ活動が行われた。
その資料がゲディミナス城に展示されていた。
この丘の上の建物。
このデモ活動は、リトアニア・ラトビア・エストニアの三カ国、約200万人が手をつなぎ、600km以上の人間の鎖をつくったそうです。
そのスタート地点がゲディミナス城
ここ!!
ラトビアのリガでは、こんな碑があった。
当時、私は9歳。日本でもニュースで取り上げられていたのだろうか…
【ヒロシマの有る国で】の歌詞の一部
「かの南の国では 大国がのしかかり〜故国の土をふむことも 家族と暮らすことも 許されない戦争が なぜ今も起こる」
この歌を歌っていた当時、ピンときていない自分がいたけれど、今、実際に見て、知った。
バルトの道「人間の鎖」、きっと誰かが声をあげ、そこに賛同する人が集まり、200万人がつながったんだろう。
やっぱり、声をあげる必要がある。
世の中、おかしいことが多すぎる。でも、それを見て見ぬふりして過ごしてしまった自分、声をあげられなかった自分がいる。
「おかしいことはおかしい」と言える人でありたい。
命 @ヴィリニュス
今朝、7:39(リトアニアタイム)、嬉しいLINEが入りました!
昨日まで、私にはかわいい!かわいい!姪っ子と甥っ子が5人いたんです。
そして、今日、6人目が産まれました〜。
ようこそ!この世界へ!
そして、お母さん、お疲れさまでした。ゆっくり休めないと思うけど、ちょっとゆっくりしてね。
そんな嬉しい報告を受けて、今朝は出発!
バスに乗ってTRAKAIへ
約1時間ぐらい乗ってたかな!?
初めは貸し切り状態。
ここには、トラカイ城があります。
お城を観光するというよりは、ピクニックに来た感じかな。
お城のまわりをぐるっと回って、ランチ。
そう!昨日作ったおにぎり^_^
お城の前で・・・
池のほとりでいただきました。
昼からはヴィリニュス市内に戻り、
KGB博物館へ。残念ながら休館。
明日、もう一度訪れます。
ここは、ソ連国家保安委員会に監視されていたリトアニアの人々がこの場所に連れてこられ、拷問を受けたり、シベリアに送られたりしていたようです。ここでも、たくさんの命が奪われました。
ここから橋を渡ってすぐ近くにある「杉原千畝記念碑」へ
桜は咲き終わり、葉桜になっていました。
命のビザ
このビザが発給されることでたくさんの命が救われたんですね。
すぐ近くにこんな石が↓↓↓
広島の被爆敷石だそうです。
1945年8月6日8:15、広島に原子爆弾が投下された時、爆心地の北約200mの相生橋付近で使われていた市内電車の敷石だそうです。
この石に平和への願いを込めて、「ひろしま・祈りの石の会」から送られています。
この石の前に立ったとき、友だちが「ヒロシマの有る国で」を口ずさんだ。私もともに歌う。
歌詞の一部、
【わたしの国とかの国の 人の生命は同じ このあおい大地の上に同じ生を得たのに】が流れる…
この歌は当時、私が小学6年生の時に習った。修学旅行で広島に行った時、語り部さんから話を聞かせてもらった後、約150人でこの歌を合唱。歌いながら泣いていたのを今でも覚えている。
そして、8年前、6年生の担任をした時に、54人の子どもたちと一緒に、
2年前、1年生で担任した子どもたちと一緒に「原爆の子の像」の前で歌った。
産まれてくる命、奪われる命、救われる命、どの命も同じ。
5年前に関わった子どもたちが今6年生。修学旅行で広島を訪れる。
『百聞は一見にしかず』
見て、聞いて、感じて、読んで、話して、たくさんのことを感じてきてほしい。
杉原千畝 @リトアニア
今日も朝からバスで4時間半ほどの移動。
バルト三国を南下中。
菜の花が満開!
春です!!!
今日の国境越えは、ゆっくり。
国境を越える前、渋滞らしきものがあり、「今から国境を越えるぞ!!」という準備ができました。
心の準備!?カメラの準備!?
そして、最近感じること…
電車やバスを降りて、少し歩くと街の雰囲気、空気、感じがわかる。
フィンランドのヘルシンキを歩いている時もそうだったけど、今日も昨日より少しリラックスして歩いている自分がいる。
hostelもいい感じ。
受付↓↓↓
街はこんな感じ↓↓↓
駅前とhostelの近くだけ歩く。
今日は晩ごはんの買い出しに出歩いただけ。
明日はまち歩き。。。
晩ごはんと一緒におにぎりを作りました。明日のお昼ごはん。
旅に出る前にいただいたふりかけ。
大事にとっておいたけど、賞味期限が迫ってきたので、美味しい時にいただきます。ありがとう^_^
最後に…
リトアニアを旅するにあたり、少しだけ勉強した。
「杉原千畝」さんについて。
第二次世界大戦中にナチスドイツに迫害されたユダヤ人に対して、杉原千畝さんはビザを発給し続けた。ビザは6,000人に発給され、その全ての人の命が守られたそうである。
このことから、杉原千畝さんの発給したビザは「命のビザ」とよばれている。そんな命のビザを発給した舞台がここ『リトアニア』。
この地を今日から歩く。